森立之とは


森立之 (もり りっし/たつゆき) 号 : 枳園(きえん)

十五歳で家督を継ぎ,福山阿部侯の医員となったが,天保八年(一八三七)禄を失い, 落魄して十二年間家族とともに相模を流浪した。弘化五年(一八四八)帰参して江戸に戻り,医学館を活動拠点として古典医書の校勘業務や,研究・執筆に従事した。維新後はすでに没した先輩や同僚の業績を引き継ぎ,考証医家の第一人者として名をなした。

小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』(大修館書店,一九九九年)


 森立之は文政五年(一八二二),十六歳で伊沢蘭軒に師事し,『傷寒論』を学び始めた。その前年,養父・恭忠が他界し,藩医の職を襲って禄高百石を賜ったばかりである。医師としての森立之の人生は『傷寒論』に始まったわけである。そして三大医学古典(『本草』・『内経』・張仲景方)に対する「攷注」の最後として元冶元年(一八六四),森立之は『傷寒論攷注』の執筆を開始した。本書も『本草経攷注』や『素問攷注』同様に医学館での講義と並行して執筆が進められていた。しかし慶応四年(一八六八)春,本書が完成する前に西軍が江戸に迫り,医学館が傷病兵の収容施設として使われるために講義のほうは二月七日を最後に休講となり,おそらく巻二十五の「少陰病」までしか行われなかったようである。巻二十六〜巻三十四は三月二十三日までに急速に脱稿され,巻三十五は成立の日付は明らかではないが,さほどの日数は要さなかったであろう。  同年七月に医学館は閉鎖,江戸は東京と改められ,森立之は新政府の医師となることを辞退して医業を廃することとなった。まさに森立之の医学人生は『傷寒論』に始まり,『傷寒論』に終わったといえよう。巻三十末の二月十八日付の跋にいう「余が五十年来の精神の専注する所は唯だ此の三十巻中に在り。其の(張仲景の)家説秘訣の如きは其の理玄妙幽微にして蓋し其の人に非ざれば伝うる可からず。仲景以後,以心伝心の至意は久しく其の伝を失い,注家の皆文字上に就いて解説せるは,但だ是れ堂に昇って未だ室に入らざる(奥義に達していない)の徒なるのみ。今其の偏陋を看破して臨症実詣の地に帰するときは,則ち仲景の書,始めて読むべくして,始めて今日に施用す可し」と書かれている。

岩井祐泉『宋以前傷寒論考』(東洋学術出版社,二〇〇七年)

森立之業績

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岩井師からの推薦文

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